「マーク」が「文字」になる瞬間——ハンコ屋さんと地図を作った話

「うちは、ただのハンコ屋ですから」

この言葉を聞くのは、二度目です。先日の記事で、「うちはただの紙袋屋だから」とおっしゃっていた社長さんの話を書きました。今日はその続きのような話です。

ただし今回は、対話ではなく、一枚の地図を一緒に作りました。

地域にいるだけで、仕事が回っていた

ご家族で続けてこられた、手彫りのハンコ屋さんです。職人さんがずっと残っている、ものづくりの老舗です。

昔は、近所のお付き合いだけで仕事が回っていました。その地域にいるだけで注文が来る。特に困ることもなかったのだと思います。

それが、ウェブの時代になって変わりました。検索すれば、安いハンコがいくらでも出てきます。近くには量販店もあります。ものすごく良いものを作っているのに、仕事はどんどん取りにくくなっていきました。

そして社長さんご自身が、「うちはただのハンコ屋だ」と思ってしまっている。

カスタマージャーニーマップを、一緒に作った

そこで今回は、カスタマージャーニーマップを一緒に作りました。

お客さまがお店をどう知り、なぜ選び、買ったあとに何が起きたか。お客さまの側から見た道のりを、一枚に描き出すものです。大事なのは、想像で描かないことです。実際のお客さまとのやり取り、言われた言葉、注文の経緯。会社の中に残っている事実を思い出しながら、埋めていきます。

印材を彫る職人の手元。かたわらに朱肉と、試し押しの紙

作ってみると、二つのことが見えてきました。

「印影が綺麗だから選んだ」

一つ目は、お客さまが喜んでくださっていた場所が、事実として目に見えるようになったことです。

あるお客さまは、このお店を選んだ理由をこう言っていたそうです。「印影が綺麗だから」。

職人さんたちがこだわってきたのは、彫りの技術です。でも、お客さまに彫っているところは見えません。お客さまに見えるのは、紙の上に残る印影だけです。技術は見えず、結果だけが見える。こだわりはちゃんと届いていました。ただ、職人さんが思っていたのとは違う形で届いていたのです。

この話の中で、職人さんがとても印象的なことをおっしゃいました。

「機械で彫った文字は、ただの『マーク』です。それが『文字』になる瞬間がある」

フォントの話だ、と言ってしまえば簡単です。でも、余白の取り方や線の出し方に、手彫りの老舗ならではの心がこもっている。それが印影に表れる。マークと文字の違いを、お客さまはちゃんと受け取っていました。

大切な人に、紹介したくなる店

二つ目は、お客さまがどこから来ているか、です。

このお店のお客さまには、親戚からの紹介で来る方が多いそうです。

考えてみれば、ハンコは人生の節目に買うものです。成人したとき。結婚したとき。会社を立ち上げたとき。実印や銀行印を作る場面で、「あそこで作るといいよ」と、大切な人からすすめられて来る。

ハンコ自体は、量販店でもネットでも買えます。それでも、「ハンコ屋さんから買いたい」人たちがいる。実際このお店には、誰もが名前を知っているような会社からも、長く続けてご依頼があるそうです。文房具としてハンコが欲しかったのではなく、ハンコ屋さんから買いたかったのだと思います。

ズレていたのは、価値ではなく言葉だった

ここまでを並べると、面白いことが分かります。

この会社の価値は、ズレていませんでした。ズレていたのは、言葉です。会社が語ってきたのは「彫りの技術」でした。お客さまが感じていたのは「印影の美しさ」であり、「大切な人にすすめられる安心」でした。同じものの、別の面です。

こういうズレが見えたとき、取れる道は二つあります。

一つは、お客さまに言われるがままに、売れるものを何でも売ること。これは軸がブレます。もう一つは、自分たちのこだわりだけを、これまで通りの言葉で語り続けること。これは伝わらないままです。

どちらでもなく、軸は曲げずに、伝え方をお客さまの側の言葉に合わせていく。ジャーニーマップの価値は、ズレを見えるようにした上で、「どちらに、どれだけ寄せるか」を自分たちで選べるようにしてくれることだと思っています。自分たちの伝えたい価値を軸に据えることと、それが市場でどう受け取られているかを見ること。どちらか一方では成り立ちません。

この地図は、社長さんの記憶で描いた

ここからが、私がいちばん書きたかったことです。

今回の地図は、記録されたデータから描いたわけではありません。社長さんの記憶から描きました。「印影が綺麗だから」という一言も、親戚にすすめられて、という経緯も、何十年も商売をしてきた中で心に残っていた声です。

記憶だけでも、二つの発見がありました。でも正直に言うと、記憶で描ける地図には限界があります。

思い出せるのは、印象的だったお客さまだけです。声の数も足りません。「本物志向のお客さまが多いのではないか」というのは、現時点では私の仮説にとどまります。そして地図の空欄を、想像で埋めるわけにはいきません。

もし、記録が残っていたらどうだったでしょう。誰が、誰の紹介で来て、何を作り、なぜこの店を選び、何を喜んでくださったのか。それが一件ずつ書き留めてあったら、この地図はもっと高い解像度で描けたはずです。仮説は、事実として確かめられたはずです。

カスタマージャーニーマップの解像度は、それまでに溜めてきたお客さまの声の量で決まります。

だから、顧客管理なんです

顧客管理というと、売るための道具だと思われがちです。誰に何を売ったかを記録して、次の営業につなげる。もちろん、それもあります。でも私は、もう一つの働きの方が先にあると思っています。

お客さまの声をちゃんと溜めていくと、自分たちの本当の価値の輪郭が、だんだん見えてくる。顧客管理は、自分たちが何者かを教えてくれる鏡でもあるのです。

これは、ハンコ屋さんに限った話ではありません。お客さまの声は、放っておけば消えていきます。書き留めた分だけが、次に地図を描くときの線になります。立派な仕組みは要りません。誰が、どこから来て、なぜ選んでくださったのか。まずはそれを書き留めるところからです。

「ただのハンコ屋」に、文字が宿るまで

「ただのハンコ屋」という言葉は、いわばマークです。まだ意味の宿っていない、機械的な記号です。

そこにお客さまの声がひとつ、またひとつと重なっていくと、輪郭が生まれて、意味が宿ります。マークが、文字になります。

紙袋屋さんの記事の最後に、たいていの会社は「ただの◯◯屋」ではない、と書きました。今回もそうでした。ひとつ違ったのは、それを教えてくれたのが私ではなく、お客さまの声だったことです。


事例は、事業者さんが特定されないよう一部の情報をぼかしています。

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